そう思っていたのだけれど

そう思っていたのだけれど、甲斐と付き合い始めてから一ヶ月が経過した頃、私は偶然久我さんに会ってしまったのだ。

 

 

九月になり季節は夏から秋へと移り始める。

まだまだ気温は暑いけれど、Botox去皺 夏のような蒸し暑さは感じられなくなり、トンボが空を飛ぶ姿をちらほらと目にするようになってきた。

 

 

私と甲斐が付き合い始めたことは、既に職場内には知れ渡ってしまっていた。

甲斐から私と付き合い始めたことを聞かされた青柳が、うっかり職場の同僚にその事実を話してしまったことがキッカケだ。

 

 

いつか知れ渡るとは覚悟していたけれど、その反響はなかなかのものだった。

きっと甲斐が職場内の誰からも好かれる人気者だからだと思う。

 

 

例えば私が院内の食堂で昼食を食べているときも、周囲からの視線が気になるようになった。

今まで全く話したこともない人から、話しかけられることも増えた。

 

 

「君、甲斐と付き合ってるんだってね。アイツ、いいヤツだからよろしくね」

 

 

「甲斐くんのこと、絶対裏切るようなことはしないでね」

 

 

などと、私に声を掛けてきた人は男女問わず皆、甲斐に好感を抱いている様子だ。

まさか院内の全員と親しいのではと思ってしまうほどだ。職場恋愛なんて決して珍しくはないし、周囲にも堂々と職場恋愛を楽しんでいるカップルもいれば、隠しながら交際している人たちもいる。

 

 

慣れれば周囲の意見や視線など気にならなくなるのだろうけれど、職場恋愛が初めての私にとっては、なかなか無視出来ない問題なのだ。

 

 

反対に、甲斐は周囲の視線など全く気にしていない様子だ。

むしろ、私との交際のことを同僚に追及されても、一切困惑することなく上手に対応しているらしい。

 

 

私はいちいち真に受けて考え込んでしまうタイプだから、甲斐のように他人に惑わされない性格になりたいと強く願ってしまうのだ。

 

 

この間甲斐と二人で部屋でくつろいでいたときに、甲斐のような性格になりたいと打ち明けた。

すると甲斐は、笑いながら私の頭を撫でて言った。

 

 

「七瀬は、今のままでいいじゃん。俺はそのままの七瀬を好きになったんだから」

 

 

当たり前のようにそんなことを言ってくれる甲斐の優しさと懐の深さに感動して、私は泣きそうになるのを必死に我慢した。

 

 

甲斐の言葉は、私に勇気をくれる。

いつも嬉しくなるような言葉ばかり貰っているけれど、私はちゃんと返せているのだろうか。

 

 

金曜日の夜。

業務後に一時間のミーティングを終えた後、そんなことを考えながら私はいつも買い物をするスーパーに向かって歩いていた。こうやって街中を一人で歩いていると、今ここで真白さんに遭遇したらどうしようとたまに考えてしまう。

 

 

真白さんには、甲斐から私と付き合い始めたことをメールで伝えたらしい。

もう連絡は取らないことも伝えてくれたからか、甲斐に真白さんから連絡がくることはなくなった。

 

 

入院していた彼女の母親も退院したからか、真白さんが病院に姿を現すこともなくなった。

 

 

彼女が私に吐いた嘘にはみっともないくらい惑わされてしまったけれど、過去に甲斐が愛した女性が嫌な人だったとは思いたくない。

 

 

出来れば甲斐のことはもう忘れて、完全に過去の恋として終わらせてほしい。

そして、真白さんには新しい恋に向かって歩み始めてほしい。

勝手だけれど、甲斐を好きになる女性なんてこの先私一人だけでいいと本気で願ってしまうのだ。

 

 

「七瀬さん?」

 

 

そんな強い独占欲が胸の奥で疼いているときだった。

目の前で私を見つけ立ち止まる人の姿を見て、思わず呼吸を忘れそうになった。

 

 

そこには、久我さんがいたからだ。

 

 

「久我さん……!」

 

 

「驚きました。本当に僕たち、よく会いますね」

 

 

久我さんは以前と変わらない笑顔を、彼に散々嫌な思いをさせてしまったはずの私に向けてくれたのだ。「一ヶ月振りくらいですね。元気にしていましたか?」

 

 

「あ……はい。元気にしています。久我さんは……?」

 

 

「僕は元気じゃなかったですよ。一ヶ月前、七瀬さんに振られたんで」

 

 

一気に気まずさを感じて返す言葉に困ったのも束の間、久我さんはすぐに笑い飛ばしてくれた。

 

 

「冗談ですよ。確かに振られたのはショックだったけど、覚悟はしてたんで。意外と元気にやってます」

 

 

どちらの言葉が本音なのか、やっぱりこの笑顔を見ても判断は出来ない。

でも元気にやっているという言葉が聞けただけで、少しホッとした。

久我さんには悪いことをしてしまったと、ずっと気になっていたからだ。

 

 

「あの、久我さん。甲斐とのこと……本当にありがとうございました」

 

 

「僕は七瀬さんに礼を言われるようなことは何もしてないですよ」

 

 

「そんなことないです。……今私が甲斐のそばで笑っていられるのは、久我さんや蘭のおかげだと思ってますから」

 

 

二人が背中を押してくれたから、今の私がいる。

自分一人の力では、いつまで経っても前に進むことは出来なかったと思う。

 

 

「彼とうまくいってるんですね。良かった」

 

 

甲斐と付き合い始めてから、まだ一度もケンカはしていない。

ちょっとしたことで言い合いになることはあるけれど、次の瞬間にはもう笑って話せている。

 

 

だからきっと、うまくいっているという表現は間違っていない。「そうですね……多分うまくいってると思います。でもまだ、一ヶ月なので」

 

 

「どうして多分なんですか?もっと自信を持って幸せだってアピールすればいいのに」

 

 

「……そういうの、苦手なんです」

 

 

遥希と付き合っていたときも、自分は幸せだと思っていた。

付き合いが長かったから多少マンネリ化している部分はあったけれど、それでも交際はうまくいっていると信じていた。

 

 

でも結局、そう思っていたのは私一人だけだったのだと、遥希の浮気現場を目撃したときに気付いたのだ。

 

 

あのときの虚しさを忘れることは、きっとない。

だから今も、この幸せが独りよがりな幸せだったらどうしようと考えてしまう。

 

 

「七瀬さんは、もっと自分に自信を持った方がいいですよ。せっかくいい恋をしているんだから、謙遜するのは勿体ない」

 

 

「自信……ですか」

 

 

仕事に関しては自信を持って取り組むことが出来るのに、恋になると途端に臆病になってしまう。

それに、年齢を重ねる度に慎重さが更に増している気がする。

 

 

きっと傷付いた経験が、人を変えていくのだろう。

 

 

「じゃあ、そろそろ僕行きますね。また今度七瀬さんの眼科に行くので、そのときはよろしく」

 

 

「あ……はい!お疲れ様です」

 

 

「何かあれば、いつでも相談に乗りますよ。じゃあまた」

 

 

そう言って久我さんは穏やかな笑みを浮かべた後、颯爽とその場から立ち去って行った。